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御成門新報公式サイトオープン

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近代から現代に至るまで、人類社会の発展を支えてきたのは科学技術の発展でしたが、その基礎は 17世紀にデカルト•ニュートンによって確立された近代合理主義に立脚した近代科学の上に基づいています。それは「機械的世界観」と「要素還元主義」を柱とする思考の枠組み(以下パラダイム)で成立している学問です。機械的世界観とは「世界がいかに複雑に見えようとも結局は一つの巨大な機械である」という捉え方を指します。要素還元主義とは「人間が何かを認識する時にその対象を単純な部分の要素に分類•分割し、その分類した要素を詳しく調べ、問題があればその部分を修復し再び元の形に戻せば良い」という捉え方です。この2つのパラダイムは世界が農業化から工業化へ変化していく中で「無ければ造るしつくれば売れる」という状況の中、恐るべき切れ味をみせました。

 ところが、この 2つのパラダイムは今、息切れを起こしています。それは機械的世界観においては「全体を部分に分割する都度、全体に内に含まれる大事な何かが失われていく」、要素還元主義においては「重要でないと考えられる要素は捨て去っていく事にならざるを得ず、何が重要で何が重要でないかの判断は当事者が所有する思考の枠組みによって独断的に決められてしまう」という各々の限界点が見え始めているからなのです。つまりこれらは 2項対立の思考、分離分割の思考とも言え、主観と客観や全体と部分をそれぞれ対照的に分析的に捉えてその反対の一方を捨て去るという思考形式では現代事象が捉えられなくなってきた事を指すのです。

 しかし、よく考えてみるとみるとこれらのパラダイムは近代に発生したものです。そしてその近代のパラダイムという眼鏡をかけて現代を理解する事自体に無理があるのではと私たちは考えました。

 そこで私たちは かつての偉大な先人達のように、メディア運営を通して現代にふさわしいパラダイムを「独立不覊、不偏不党、官民調和」に基き、知足利他の視座で読者の皆様と創成していきたいと考えるに至ったのです。
御成門新報は読者と共に現代そして未来へのパラダイムを紡いでいくオープンエンドのインターネットメディアを目指し歩んで参りたいと考えています。

【Steve’s Bar】連載第3回 【少しの間だけ ’誇り’ というコトバを思い出してみませんか】

 

 

ゲスト:木全ミツ氏 - 認定NPO法人 JKSK女性の活力を社会の活力に<英語名:Empowering Women Empowering Society>会長

 

聞き手:スティーブ・モリヤマ

KimatasanSteve3(写真:前方:木全ミツ氏、本誌主筆木内孝氏、後方:筆者)

―― 「人のお世話にならぬよう。人のお世話をするように」というお父上(故・河野信勝氏)の言葉が人生のバックボーンという木全ミツさん。東京大学医学部卒業後、労働省に30年間奉職。その間15~6年をODAの先駆的スペシャリストとして費やし、さらに国連日本政府代表部公使としてニューヨークに3年間単身赴任し積極的な外交活動を展開されました。労働大臣官房審議官を最後に退官後は民間に転身。ザ・ボディショップ・ジャパンの初代社長に就任し、10年間社長を務め、その後は、JKSKや本誌主筆木内孝氏が代表を務めるイースクエアをはじめ、様々な団体の指南役としてご活躍されています。

ミツ先生とお話していると、頭のなかに3つの漢字が浮かびます。それは「将」と「気概」そして「誇」です。全身から流れでる気の力でしょうか、ともすると礼儀作法を忘れがちな和僑の私ですが、自然と襟を正してお話を伺っている自分を見出します。

 

本日は、これまでミツ先生が受けてきたあまたあるインタビューの中で、一番深く掘り下げたものにしたいと思います。物書きを始めて15年目になりますが、私が書き続けるわけは、記憶が風化するからです。ミツ先生をはじめ、大戦をはさんで必死に生きてこられた方々の努力があったからこそ、今、我々はこうして平和に暮らしていられるのだ、という事実を残しておきたいのです。チェコの作家ミラン・クンデラは「歴史とは、記憶と忘却との戦いだ」と喝破していますが、我々物書きの使命は、微力ながら、実に厳しいその“戦い”に参戦し、真実の記憶を風化させないことだと思っております。

それでは、先ず最初に、木全ミツ先生のこれまでの人生を駆け足で振り返っていただけますか。

木全氏:わたくしの家は九州の医者の家系で、男6人・女3人の9人兄弟の真ん中っ子として福岡で生まれました。明治生まれの母は良妻賢母を絵にかいたような人でした。高等女学校の学生だった母は振袖と袴の制服を着て福岡高女に通っていたのですが、彼女の振袖のなかに若い医学生がラブレターを投げ入れ、それがきっかけで大恋愛し結婚しました。「産めよ増やせよ」という国策に従い、9人の子を出産。将来は陸軍大将の妻になるのだ、という夢を胸に、絶対君主の父に絶対服従していた母。本当は仲が良かったのでしょうが、子供ながらに両親の封建的な関係に懐疑的・批判的な気分になったものです。兄と姉は、常にクラス1番の秀才で、わたくしはというと2、3番ぐらいでしたし、真ん中っ子でしたから、幼いころから家事の手伝いが家の中での自分の役割でした。「みっちゃんは、かわいいお嫁さんになるのよね」と褒められて、素直に喜んで家事に専念するような娘でした。

第二次大戦が終わりに近づいたころ、軍医大佐だった父に連れられ家族全員で満州新京(現在の中国長春)に移り住み、小学校前半を過ごしました。ところが、終戦直前、日本の敗戦を察知していたのか、父から「お母様のいうことをよく聞いて日本に帰るのだよ」と言われ、父と別れて帰国の途につきました。わたくしが9歳のときです。朝鮮半島(北朝鮮の平城<ピョンヤン>)で玉音放送を聞き(終戦)、命からがら日本に引き上げてきました。軍医だった父は、その後シベリアに抑留されました。

その後、父とは5年間音信不通でした。突如として大黒柱を失った一家は貧困家庭となり、生活保護を受ける羽目に陥ったのです。父に頼り切っていた母の狼狽は尋常ではなく、子供ながらに不憫に思い、少しでも助けたいと思いました。

―― 僭越ながら、想像を絶する厳しい状況下で、幼いミツ先生が、とても冷静沈着に状況を俯瞰されていたのは驚かされます。

木全氏:今だから冷静に振り返ることができるのでしょう。ただ、それまで比較的豊かだった暮らしが反転しましたから、「お腹すいた」と叫ぶ子供たちに配給のかぼちゃを一切れずつ小皿にのせて「お腹がすくから動いちゃだめよ」としかいえない母は辛かったと思います。洋裁の内職以外にお金を稼ぐ術がなく、ただただ耐え忍ぶ母を見ていて、もちろん母が大好きでしたが、「何が起きても、国にも、所属組織にも、家族にも、誰にも頼らず、どんな時代、どんな環境に置かれても、二本脚で立ち、生きていける人間になりたい」と強く心に誓ったのです。

―― 9歳の女の子の決意、いや職業意識の芽生えとしては並々ならぬ気迫が感じられます。ただ、やはり思ったとおりでした。過去のミツ先生の対談記事を読ませていただきましたが、「あんな哀れな女になりたくないと思った」と書いてあり、これはニュアンスが違うのではないか、読者に誤解をあたえる書き方だな、と心配になりました。

木全氏: いえいえ、きっとわたくしの話し方が悪かったのでしょう。

―― そういう控えめなところは、もしかすると九州生まれの影響かもしれませんね。

木全氏:わたくしが生まれた福岡をはじめ九州には「三歩下がって男の影を踏まず」という習わしがあります。たぶんこれは自分のなかにも残っていて、いろいろな局面で、逆に助けられたと思うのです。外交交渉の場においても、三歩下がって、徹底的に相手の話を聞き、好きなだけ相手に話をしてもらうと、今度は相手のほうからこちらの意見を聞いてくれます。そこでようやく、こちらの要望を伝えると、まるで乾いた海綿が水を求めるがごとく、わかってもらえて、結果的に「三歩下がって」四歩も五歩も前に進むことができたものです。

―― なるほど。男性もそうですが、特に男社会で生きている女性は気張りすぎていて「三歩下がれる」人は少ないかもしれません。「口は一つ、耳は二つ」あるのは、きっとそういう意味があるのでしょう。

さて、ミツ先生のご家族はお父上不在のなか、満州から敗戦国・日本に引き上げて再出発されたそうですが、その頃の様子を教えていただけますか。

木全氏: どこもかしこも焼け野原で、誰もが食糧難にあえいでいるような時代でした。辛い生活でしたが、それ以上に、不可抗力によって突如人生の梯子を外されてしまった母が不憫でなりませんでした。洋裁の内職で毎晩夜なべをして、私たちを支えてくれていた母を少しでも助けたいと思い、小学生でしたがパンを売ってお金を稼ぐことを覚えました。貯めたお金を母に渡したら、涙をぼろぼろ流して受けとってくれて、子供ながらに深い安堵を覚えました。

生真面目だった母は、母子家庭で子供たちの教育を疎かにしてはいけないと、自ら、早朝からNHKラジオ基礎英語「カムカム・エブリバディ」を聞き、子ども達からいつ英語について質問されても答えられるようにと準備をしていたのです。義務教育は原則無料のなか、あえて学費がかかる福岡学芸大学附属久留米中学に子供たちを通わせてくれました。ひと月500円の授業料でしたが、毎月支払いが間に合わずに“授業料未納者”の張り紙を貼られてしまうのです。数日遅れるだけなのですが、父親不在の子供たちが見劣りしてはならないと、子供たちの担任に母は必死で学費を届けてくれていました。

―― お母様の愛ですね。そうこうしているうちに、突然お父様が戻ってこられたわけですね。

木全氏: 抑留五年後に最終引上げ船で突然戻ってきました。天皇陛下万歳の筋金入りの軍国主義者だった父は、もうそこにはいませんでした。「俺は社会的地位も、名誉も、財産もすべてを失ってしまった。だけど、一人も生き残ってないと聞かされていた君たちが生きていてくれた。俺は医者だ。君たちという宝が僕にはある、再起可能だ」と言ってくれました。その後、名古屋で開業したのですが、父はビールが大好きでした。長話になることが多いためか兄たちは父を敬遠する傾向にありましたが、わたくしは、すすんで晩酌に付き合っていろいろ話をしました。本当は9人兄弟の真ん中っ子でどうでもいい子だったのですが、そのおかげで、父とはいろいろと話すことができたのです。

―― そんな中でご自分の進路もいろいろとアドバイスしてもらったわけですね。

木全氏: 父はこう言いました。「日本に将来があるとすればテクノロジーだ。進学するなら理系を選べ。これからの日本には男も女もない。能力がある者はどこまでも進んで行け。授業料は出してあげよう」と。

“これからの日本には男も女もない”・・・何と素敵な言葉でしょう。わたくしが余韻に浸るなか、父は続けます。「しかし、お父さんに一つだけ協力してくれないか。子供が全員私立に行ったら、俺の限界を超えてしまう。国立に行ってくれないか」というのです。

「お兄ちゃん、国立って、なーに?」「馬鹿だな、東大だよ」ということで、わたくしは目標を東大に決め。勉強することにしました。そして、東京大学医学部に進学したのです。

―― やはりお父上や親せきの方々にお医者さんが多かったからでしょうか。

木全氏:確かに父も夫も息子夫婦も孫も兄夫婦も兄の四人の息子・娘たちも、その他親戚エトセトラ、医者ばかりですから、それもあります。しかし、それだけではないのです。当時、皆保険の時代ではありませんから、医者にかかれるのは裕福な数パーセントだけ。わたくしの関心は「お医者さんにかかれない9割以上の人たちに何ができるのか」ということでした。そこで父にそういう志で公衆衛生を学ぶのはどうか、と相談したわけです。

―― お父様はきっと娘さんから相談を受けて嬉しかったでしょうね。

木全氏:ええ、とても嬉しそうでした。「君は良いこと言うね。医学部では優秀な男は公衆衛生にはいかない。なぜなら地味だしお金にならないからだ。けれども、もし君が一生仕事をしたいなら実に良い分野だと思うよ」と言ってくれたのです。

当時の日本は、今の中国の田舎のような状況で、下水道も上水道もなく、とにかく国全体をあげて公衆衛生のレベルを上げていかねばならない状況にありました。卒業が近づいていくなかで、どこに就職し、どんな生き方をしようかを考える時期がきました。選択肢は、大学、研究所、民間企業、官僚と四つありました。当時、日米安保条約の改定の是非について、学生の間では大いに意見交換をしていました。東大医学部で1年上の兄は「学生は勉強していればいいんだ」とノンポリ学生を決めつけていましたが、わたくしはいろんな学生の話を聞いて意見交換に参加し、日一日と目覚めていきました。学生間では「官僚は“社会の癌”だ、国民のためには何もしていない」というのが大勢の意見でした。

そんな雰囲気のなかで「日本の公衆衛生のレベルアップを果していくためには、社会のすべての関係組織に、みんなが入っていかなくてはならない」「あなたが官僚に・・・」と友人達の間ですすめられて悩みました。「この隠然とした力を持っている官僚組織を貴女は避けて人生を歩いていくのか、個人の力などたいしたことはないかもしれないけれど、どうして、自ら中に入って改革しようと思わないのか」と自問自答しました。そして、労働省入りを決意したのです。

―― 素晴らしい。義を見てせざるは勇なきなり、ですね。ところで、医学部からなぜ労働省なのでしょうか。

木全氏: 医学部出身ですから厚生省または文部省という発想になりがちですが、旧い官僚体質の強いこの二つの省は、わたくしの体液がどうしてもゆるさなかったのです。そんななか、戦後、働く労働者の人権、『女工哀史』に見るような女性の人権、そして、児童労働を認めてきた児童の人権をこのままにして “民主国家たりえない”ということで設立された労働省の存在を知り、すっきり入っていったのです。

ところが、後に夫となる当時付き合っていた彼に大反対されました。彼も安保闘争時代のとき“目覚めてしまった”一人で、三歳上でしたが、同じ東大医学部のソビエト医学研究会というところでご一緒し、「ソビエト医学を勉強するためにはロシア語を学ばねば」と先輩が後輩にロシア語講座を設けて教えてくださっていました。彼は、『ロシア語中級講座』の講師でした。教え子だったわたくしは、ある日ラブレターをもらい、以来お付き合いをしていたのでが。。。

―― オッと~、お母様と同じですね。親子二代にわたってラブレターをもらった相手と結ばれたのですか。実に縁起が良いお話です。

木全氏: それはそうなのですが、その彼が「役人は絶対反対だ」というのです。“世の中の癌”といわれていた官僚に自分の彼女がなるのは耐えられなかったのでしょうね。

―― それでも説き伏せたわけですね。

木全氏: いえいえ、話はそんなに簡単ではありませんでした。私たちは約3年半にわたってお付き合いしました。デートの時のテーマは常に”わたくしの一生の仕事“についてでした。そういうある日「労働省、是か非か」で熱い意見交換をした後、帰路、御茶ノ水からわたくしの下宿のあった世田谷の赤堤まで延々と議論しながら歩いていたのですが、途中彼の家があった松原に近づいたときに「このまま平行線の議論を続けていても仕方がない。僕をとるか、労働省をとるか、決めてくれ」ということになりました。夜の23:30だったと思います。

―― うっぷす、急展開ですね。それで?

木全氏: わたくしは冷静に「労働省を・・・」と伝え、「それでは、仕方ない、さようなら」と私たちはその夜、別れたのです。

―― えぇっ~~

木全氏: もう夜中ですから、彼が家に帰るとご家族の皆さん寝てらして、妹さんの部屋の電気だけついていたそうです。「今夜、みっちゃんと別れてきた。だけど大丈夫、僕は自殺なんてしないから」、ビックリした妹さんが、「たいへん、たいへん、お兄ちゃんが別れてきたって」と義母を叩き起こしちゃったそうです。真夜中でしたが、弟を護衛に頼み義母は血相を変えてわたくしの下宿に飛んでこられました。「どうしたの」というので、顛末をお話ししましたところ、「それは息子が悪い。絶対に早まらないで」といわれ、それから毎日のように義母は私の下宿にいらして、彼の状況についてお話をされるのです。例えば「翌日から一週間病院の休暇をとって山に行くと言ってでかけていった」とか、これは義母の創作だと思うのですが(笑)、「出かける時に、上野駅から電話があって“みっちゃんにごめんと伝えてくれ”と言っていたわよ」などなど。そうこうしているうちに、一週間がたち、彼が山から帰ってくる日、向こうの家族の夕食会に義母から誘われました。すでにお別れしてますので、丁重にお断りしたのですが、それはそれは熱心で。。。仕方なく指定されたドイツ料理のレストランに行くことにしました。わたくしは、たった一つ持っていたドレスである真っ白なレースのワンピースに、真っ赤なリボンをつけて行きました(笑)。そうしたら、向こうの家族全員がいらして、山からおりてきたばかりの彼の真向いに座らされました。ですが、食事中の会話はほとんどなく、メインのお料理も終わりしばらくすると、「それでは、私たちは用事がありますのでお先に失礼します」といって、義母たちは席を立ったのです。ところが、さっとわたくしの近くにいらして、耳元で「帰りにうちに寄って頂戴ね」と囁くのです。

結局、彼と二人で帰りましたが、道の両側をそれぞれ歩き、ずっと無言のままでした。向こうの家に着くや否や義母が「どうだった?」というので、「ぜんぜん。。。」というと、二階で待つようにいわれ、一階で彼は義母に懇懇と諭されたのでしょう。しばらくすると、二階に彼が上がってきて「ゴメン」といって、結局それで仲直りしました。

―― 実にドラマティックで素敵なお話ですね。晴れて障害はなくなったのですね。

木全氏: いやいや、次の難関は父でした。父は東大で公衆衛生を学ぶことには同意してくれたのですが、軍国主義者だった父は、5年間のシベリア抑留生活の中でソビエトの教育を受け社会主義者になっていたのでしょうね。「官僚になるなら、親子の縁を切ってから行け」というのです。

父と恋人という大きな山の谷間に立たされたわたくしは「よーし、一人で、生きてみせるぞ」と固い決心をしました。そして、父に「これまでお世話になりました、必ず自分で生きてみせます」と丁寧な礼状兼決意書を書き送りました。

―― オッと~。。。それで家をでちゃったのですか。

木全氏: そうしたらね、父が「そこまでは言ってないぞ」と折れてきて、結局許してくれたのです。

―― よかった~、ハッピーエンドだったのですね。お父上の気持ちよくわかります。

木全氏: 恋人にも父親にも反対されましたが、自分で選択した人生なら、たとえどんなに辛くても頑張れると思ったからです。スティーブは想像できないでしょうが、「お医者さんの妻が仕事するなんて言語道断」という時代でしたからね。でも、「夫婦は、社会的にも対等な人間として共に素敵に生きていきたい」というわたくしの基本姿勢を夫はよく理解してくれました。おたがい現役時代は多忙でしたが、毎日1時間ぐらいはお酒を飲みながら話し合う時間をもつようにしていました。そのテーマは、いわゆる子供のこと、家族のこと、ご近所のこと、親戚のことといったものではなく、国際社会の問題、国内の政治・経済・労働問題、芸術、スポーツ、ファッション等でした。そんな関係ですから、喧嘩など記憶にはありません。と同時に、“夫とは人間として対等でありたい”というのが基本的な思いがございました。確かに官僚の仕事は夜中までの仕事が毎日で大変でしたが、循環器内科の医師としての夫の社会への貢献度と比べると、自分の貢献度ははるかに低いと感じていました。そこで、必ずしも夫の得意分野ではない育児、家事等の分野でわたくしの能力を発揮することで夫と対等になれると思ったのです。それで、なんとか複数の役割をこなすことができました。

―― そうはおっしゃっても、それだけお忙しいと、子育てはお手伝いさんなしでは難しそうですが、ご両親にお願いしたのでしょうか。

木全氏: いえいえ。「一番愛しているのは息子であり、一生一緒にいたい、是非、一緒に住んで欲しい」と結婚した折に木全の両親、特に義母の熱意ある要請を受けて同居をきめましたが、子供の面倒を看てもらうという考えは、私たちにも、義母にもなかったと思います。義母は裏千家の准教授でお茶の先生として大変忙しい毎日を送っていましたし、そもそもお互いの世界に干渉しないことが仲良くやっていく同居の知恵だと感じていたからです。振り返ってみると、それは正しい選択で、最後の10年間の介護期間を含む合計約50年にわたる同居生活もとっても仲良くつづけることができました。

とはいっても、自分ひとりではできませんし、当時は保育園なんてありませんから、いろいろ方法を考えました。その当時は就職難で、東京駅や上野駅は、集団就職で上京する高校を卒業したばかりの若者達で溢れていました。たまたま自宅の近くに、労働省の先輩がおられ、そのご縁で、四国の鳴門商業高校を出たばかりのお嬢さんに、“お手伝いさん”としてではなく、わたくしのできないところをサポートしていただく“パートナー”として、同居してもらうことにしたのです。もちろん、個室を持ってもらい、週末の休暇はきちんととってもらいました。もっとも、まだかわいい女の子ですから、途中から彼女はわたくしのことを「ママ」と呼んでくれてましたが。国内だけではありません。まだ息子が小さかった頃、家族でボストンに留学したのですが、彼女に同行してもらいました。子育てと仕事の両立は、その時代の状況に応じながら少し工夫することで成り立つものではないでしょうか。

―― いろいろお話を伺っていて、ミツ先生はとても優しいハートの持ち主だと思うのですが、究極の男性社会である霞が関にいた頃は、今とは似ても似つかない怖い雰囲気だったのでしょうか(笑)。すいません、僭越なこと申し上げてしまって。

木全氏:全然かまいません。わたくしのポリシーは、批判・反論する時間・エネルギーがあったら、ポジティブなことにそのエネルギーを使ったほうが何倍も楽しい人生を送ることができる、というものです。また、「どんな人も自分にはない素敵なものを持っている」「悪い部分を指摘しても誰がハッピーになるのか」と思うようにしてきました。良い部分とだけお付き合いしていれば、不満もでませんし、経験を積めば積むほど、自分が豊かな人間になっていくのを実感できたのです。ですから、そんなに肩肘張った、おっかないタイプではなかったと思いますよ(笑)。

戦後、アメリカはアジア戦略の一環で、日本を民主主義国家の中心的な存在にしていこうとしていたと思います。しかし、反民主主義的な側面も多々残っており、労働分野でいえば、適切な労働時間、最低賃金などの労働基準もなく、組合の結成、組合交渉など労働者の権利も女性の人権も保障されておらず、児童労働などの問題も残っていました。

―― ないないずくしだったのですね。

木全氏:そうです。例えば、この前、富岡製糸場が世界遺産に登録されましたが、あそこは『女工哀史』で描かれていた女性蹂躙の象徴みたいな現状があった場所ではないでしょうか。そのことを全く問題にしないで浮かれている日本社会の現状をとても残念に思いました。

―― 『あゝ、野麦峠』の世界ですね。

木全氏:そうです。労働省は戦前にはなかった省で、設立は1947年で、3年後、初めて女性キャリア官僚が労働省に入省しました。それから毎年だいたい一名ずつ女性キャリアが採用されていきました。当時、労働省には5つの局がありました(労政局、労働基準局、職業安定局、職業訓練局、婦人少年局)。女性の先輩がたは例外なく婦人少年局に配属されていったのですが、十年後の1960年に入省したわたくしは、女性としては初めて職業訓練局に配属されたのです。男ばかりの職場でした。

やがて日本はOECDに加盟し、先進国の仲間入りをいたしました。先進国になった以上、政府開発援助(ODA)をスタートし、開発途上国に対して経済協力や技術協力をおこなう必要がでてきたのです。“日本が開発途上国から先進国の仲間入りできたのは、経済発展の縁の下の力持ちとなった基本的な教育や技能・技術訓練を身に着けた人材を育ててきたからだ”という意識のなかで、その知見を開発途上国のために使っていこう、ということになり、労働省では職業訓練の分野でODAを進めていくことになったのです。

しかし、労働省は国内向けの省でしたので、アジアやアフリカなどの開発途上国のための仕事を英語で遂行できる人材がいません。採用にあたって、“国際社会で活躍できる人材”には重点が置かれていませんでした。“それでは、新卒なら、まだ英語を忘れていないだろう”などという判断から、「君、やらないか」と声がかかり、日本のODAの第1ページを担当することになったのです。運よくわたくしは、大学でESS (English Speaking Society)というサークルに属し、先輩・友人たちに囲まれて英語運用能力を身につけておりました。

―― なるほど、ミツ先生は “ODAのパイオニア” なのですね。ただ、キャリア官僚は数年毎に部署移動して昇進していくので、相手国と長期にわたる人間関係は築きにくいですよね。

木全氏: そう、くるくる回る“ゼネラリスト”が出世していきます。けれども、本当のところ、ゼネラリストの美名のもと、何一つ極めていない人たちを増産してきたのが日本の歴史ともいえます。しかし、ODA活動を通し、危機感を覚えたのです。諸外国のリーダーの方々と膝つきあわせて、それぞれの国の将来について人材育成について意見交換をするにつけ、また、国際会議の参加の仕方についても年次を追って代わりばんこに出席し実質的にうわべだけのお付き合いで終わりになっている日本の外交・ODA活動の在り方についても、「これでは、国際社会で日本が各国の人々と信頼関係を醸成していくことはできない」と感じたのです。

そこで、入省2、3年目だったと思いますが、人事担当の官房長に「日本のために、例えば労働省在職30年だとすると、そのすべての時間をODA業務に費やしてもいいと思っております。わたくしの人事はお忘れください」と申し出たら、「君、いいこと言うねぇ」と言われ、結局、在職30年のうち、継続してではありませんでしたが、15、6年をODA一筋に費やすことができました。

―― キャリア官僚で、そんなに長く一つのことに打ち込むケースは前例がなかったのでしょうね。すべての省庁を含めても、いまだにミツ先生だけじゃないでしょうか。

木全氏: それはわかりませんが、とにかく自分の希望は聞き入れられたと思っています。最初の仕事は1、2か月におよぶ行政官セミナーでした。開発途上国の局長や次官クラスが集まって、真剣なまなざしでセミナーに参加しているのを間近で見て、胸がドキドキする感動を覚えました。当時は、キャリアで入省した男女が同じ業績を上げると、男性が抜擢されるのが明白でした。それを悟ったわたくしは、男性が100の仕事をするのであれば、誰が見ても105とはっきりわかるような仕事をするよう心掛け、それが認められたとき、壁が消えていくのを実感したのです。

―― 脱帽です。簡単におっしゃいますが、エリート集団のなかで、105%の仕事をするには、いかにミツ先生であっても、人一倍努力を重ねていらっしゃたのではないでしょうか。さて、ODA専門家として様々な国の代表者とお仕事されてきましたが、その頃お感じになられたことを教えていただけますか。

木全氏: アジア、アフリカ、中南米諸国を対象にした技術協力を進めていくなかで痛感したのは、結局人間なのだから、個人レベルでの信頼感が大切だということでした。残念ながら、日本の担当者は頻繁に変わるため、諸外国の担当者と信頼感を築けておらず、これは国益に適っていないと思いました。

たとえば、国際会議で出席者たちにHow do you do? (はじめまして)なんていう、紋切り型の挨拶を繰り返しているのは日本からの出席者だけで、他の国からの出席者はみなファーストネームで呼び合う仲で、実は会議の前に議論は既に終わっているのです。知らないのは日本からの出席者だけということも少なからずありました。

―― 英語でも buy-in といいますが、根回しは日本独特のものではありませんよね。

木全氏: “対処方針”という一生懸命事前に作ってきたメモを抱えて、「いつか言わなきゃ」と気張っているうちに議事はどんどん進行してしまい、あっという間に終了。帰国したら、もらってきた資料を完璧に翻訳し、帰国報告会をやって「おつかれさま~」です。

―― なるほど、今のお話で思い出したのですが、これはたしかODA時代ではなく、ニューヨークの国連公使時代のお話でしたか、とにかく徹底的に人と会い、個人的な信頼関係を築いたおかげで、日本は選挙で常勝無敗だったそうですが。

木全氏: 49歳から3年間のニューヨーク時代の話ですね。最高に楽しい日々でした。それまでは、役人、妻、母、嫁と4つの役割をまわしてましたから、24時間のうち自分のための時間なんて45分ぐらいしかありませんでした。ところが、ニューヨークは単身赴任でしたから、自分のために時間を使えるのです。そこで、国連全加盟国に少なくとも1~2人ずつ友人を作る決意をしました。お茶にお誘いしたり、自宅に招いて手料理でおもてなしをしたり、週末はピクニックやバードウォッチング、ゴルフに、エトセトラ。昼夜を問わず、週末も含め毎日のように親友づくりに情熱を傾けました。もちろん、相手国のことも徹底的に勉強しました。歴史、政治、経済、文化、宗教、その国が抱えている課題、国連の中におけるポジショニング、日本との関係など、様々な側面から相手の国を知ろうとしました。

お蔭様で、世界の国々の人々の本音を耳にすることもでき、人間同士の信頼関係も深まり、日本が出馬した国連のなかの委員会等の選挙に日本が全て勝利をおさめる上で貢献できたと思っています。

―― 素晴らしい、真の意味で外交をされたのですね。その後、日本に戻り、着実に階段を登り、労働大臣官房審議官に就任し、それから民間に転身されたわけですね。

木全氏:当時 “21世紀は女性の時代”がキャッチフレーズだったこともあり、企業はとりあえず女性を幹部に置いておけばいい、ぐらいに思っていたのでしょう。5社からお誘いがあったのですが、「貴社の中でわたくしにどのような役割を期待しておられるのでしょうか?」と伺うと「お好きなように」という答えしか返ってこないのです。

―― ミツ先生のそれまでの国際社会における八面六臂のご活躍を知らなかったのでしょうか。実にもったいない話です。きっとその人たちは“トークン(お飾り)女性”を置いておけばいいぐらいにしか思ってなかったのでしょうね。

木全氏:たぶんそうでしょう。民間以外ですと、三つの政党から政治家転身のお誘いもありました。しかし、トップからの連絡ではなく、その下の幹部から連絡があり、「まずは政策討議をしませんか」と提案したのですが、それにこたえてくださる政党がなかったので、政治家はやめました。政策などなかったのかもしれません(笑)。ある日、労働省の官房審議官室に、ジャスコの岡田卓也会長(当時)から電話がかかってきて、お会いしたいとおっしゃるのです。

―― トップから直々に連絡があったのですね。

木全氏:ええ、「小売業の素人のわたくしになぜ?」という思いはあったのですが、「理由がおありになるからお電話を下さったのだわ」とお会いすることにいたしました。そして、「ザ・ボディショップの立ち上げを手伝ってくれませんか」というお誘いを受けたのです。

後に創業者(故)アニータ・ロディックから聞いたのですが、1976年に英国で創業後、300社以上の日本企業から提携話がもちかけられたそうです。当時日本が“エコノミック・アニマル”と揶揄されていた頃の話です。アニータは、当初日本を重要視していなかったようですが、創業13年にもなるし、何といってもビッグマーケットなので、とりあえずその中から4社を選び会ってみたそうです。ところが、アニータが21世紀型企業経営について話をすると、その4社の社長たちから「日本の社会では、こんなのはビジネスとは言いません。こことここをやめたら引き受けてもいいですよ」と言われて、アニータは怒り心頭に発し、「やっぱり、日本はダメだ」と結論づけて帰国しようとしたそうです。

ところが、ちょうどその時に、以前から英国生まれのローラアシュレイとの合弁で業績を伸ばしていたジャスコの岡田卓也氏に駐日英国大使が話をし、アニータに会ってもらったそうです。アニータの話を聞いた岡田氏は「この日本においても、21世紀にはそういう会社が必要でしょう。何も変える必要はありません。」とこたえ、アニータも「うれしい!この国にも”人”がいたんだわ」と握手を交わし、ジャスコがザ・ボディショップのフランチャイズ契約を獲得しました。その際、アニータは「我々の21世紀型事業経営は、世界の他の市場の経験からもいえることですが、良い学校を出て、一流の企業に就職し、ルールを守り、先輩を尊敬し、前例を尊ぶことにより定年まで保証されているような、いわゆる日本の優秀とされる男性には絶対にできません。是非、女性にしてください」と付け加えたそうです。「結構でしょう」と岡田氏は即決されたそうです。

―― それでミツ先生に声がかかったわけですね。

木全氏: これは想像の域をこえませんが、以前から親交があった岡田卓也氏のお姉様で、ジャスコ創業の一役を担われていた小嶋千鶴子先生の存在が関係していたのかもしれません。

正直、ザ・ボディ・ショップという会社のことは知らなかったのですが、岡田さんとお会いしたときに「広告を全くしないというコンセプトなのですが、ジャーナリストたちの要請にはアニータは率先して答えています。その結果、彼女の発言・言動は、毎日のように新聞・雑誌・印刷物で活字となって、ラジオ・TVでは電波を通して飛び交っています。今日はその一部の切り抜きをお持ちしましたので差し上げます」といっていただいた資料がありました。昼休みなど時間がある時に目を通していくうちに、環境保護・人権擁護・動物愛護など、人類が直面している様々な課題を企業自らの問題として関心を示し、企業の責任を明確にし、日常のビジネス活動のなかで真正面から取り組み、お客様やコミュニティと共に「このままでは地球は滅びてしまう。みんなで考え、行動にうつし、社会を変革していこう」と呼びかける“社会変革キャンペーン”を積極的に展開していくという企業経営に、「こんな企業があるのだろうか」「こんな女性経営者がいるのだろうか」と、だんだんと惹かれていく自分がいました。

「もう少しお話を聞いてみたい」という興味から、「お目にかかりたい」と岡田さんに連絡しました。「岡田会長もお忙しいし、私も・・・」と、朝の8時から30分だけということで、何度かお目にかかる機会をいただきました。そして、お目にかかる機会を重ねた結果、真剣に考えてみようという気持ちになっていきました。ヘッドハンティングなどという言葉もまだそれほど知られておらず、ましてや官僚から小売業に転職するなど前代未聞の時代です。

他方、労働省には何時、どんな形で話をしようかな・・・と少し悩みました。役所の人事部の大切な仕事は、45~50歳で役所を去らねばならない上級職の先輩達の転職先をどうするかということでしたので、わたくしの場合は自ら転職先を見つけたわけですから「きっと喜んでもらえる、感謝をされるだろう」という思いで、尊敬していた上司のひとりにご相談・ご報告をすると「木全クン、君は武士階層から最下層階級の商人に落ちるのか」と言われてしまいました。もちろん、言葉は悪くても、きっと、役所しか知らないわたくしのことを心配してくれたのでしょうが。

―― うーむ、士農工商の士から商にいくことへの懸念でしょうか。

木全氏:特権意識でしょうか。。。そこで「業種は化粧品・トイレタリーです」というと、「化粧品?」と蔑むようにいわれてしまいましたが、ひるまずに「全国に星の数ほどお店をつくり、そのお店を拠点に、世界が直面している、人類が真剣に取り組んでいかねばならない課題である動物愛護・環境保護・人権擁護の分野で、社員・お客様・コミュニティの皆様と共に社会変革活動を展開・推進していこうと考えております」とお話すると、「とうとう木全は気が狂った」と噂されるほど周囲の人たちに驚かれてしまい、そうこうしているうちに2000年1月16日午前10時に退官の辞令をいただきました。

―― ちょうど先日、雑誌連載で「異端者の孤独」という話を書いたばかりですが、この国では、先駆的リーダーというのは常に理解されず、共同体秩序を保つための“供犠”としてスケープゴートにされてしまうのかもしれません。

木全氏: なるほど。いずれにせよ、退官すると、短くても2週間、普通は2か月位お休みするというのが普通でしたが、翌日の朝9時からジャスコ(現・イオン)の役員会で挨拶せよ、ということで、一日も休まず、ザ・ボディショップに移籍しました。

第一号店兼フラッグショップは表参道店。創業者アニータ夫妻や岡田さんと共に、イギリス人は役人も外交官もビジネスパーソンですから、当時の駐日英国大使のホワイトヘッドご夫妻にもお願いし、テープカットに参加してもらいました。お願いした大使ご夫妻に恥をかかせてはならじと“サクラ”も含めて必死で300人近い人々を集め、盛大なオープニングとなりました。その中に労働省の役人が数人来ていて様子をうかがっていました。「木全のなりの果てを確認してこい」とでもいわれていたのでしょうか(笑)。ところが、“大英帝国”の大使によるテープカットという想定外のシーンを目の当たりにし、吃驚して役所に走りかえったのでしょう。数時間後、当時の労働大臣の山口敏夫氏から、大きな胡蝶蘭の花が届きました。

―― ミツ先生はストーリーテラーですね。その時に状況がはっきりとイメージできます。さて、役所と民間企業では仕事の進め方が違うと思われますが、当時を振り返ってどんなチャレンジがありましたか。

木全氏: チャレンジの連続でしたが、そうですね、創業者アニータ・ロディックと「リフィル(詰め替え)サービス」について侃侃諤諤の議論を交わしました。アニータはグローバルのルールを曲げませんので、「薬事法の壁で詰め替えは無理だ」と伝えたのですが、「なぜだ」と譲りません。日本なら「法律に違反するから」「厚生省が反対しているから」と答えれば納得してもらえるのでしょうが、彼女はそんなことでは折れません。そこで「とても難しいことですが、わたくしに2年だけ時間をいただけませんか。駄目なら社長を降ります」とお願いしました。何とかアニータには納得してもらえたのですが、1年に1度開催される全世界の市場の社長たちを集めてのHead Franchisees Meetingで、世界各国の社長から「リフィル・サービスをやらないなんて、あなたはザ・ボディショップの社長としての資格がないわ」「資源のない日本でリフィル・サービスをやらないなんて」などと散々批判されました。「英国等では1人の女性が15年も同じ容器を何度も洗って使ってるのに、資源の無い日本に住んでいるあなた方は、月にシャンプーとリンスを1本ずつ使っては捨てている。つまり、年間に24本もの容器を捨てていることになります。15年間に360本のボトルを捨てているのですよ」と。。。全く反論が出来ない状況下で、批判にさらされる毎日でした。確かに、私たち日本人は、資源を無駄にしており、自分たちだって同じようにボディショップのコンセプトを体現したいわけですから、大きなジレンマを感じておりました。

―― 正論ですよね。

木全氏:そう、正論。だけど、当時の小さなお店でそれをやるには、まずは最寄りの保健所に相談し、それから東京都の衛生局に行って、厚生省に行く、といった煩雑な手続きを踏む必要がありました。

それでは認可まで時間がかかりすぎますし、実現は不可能であることは明白でした。2年以内の問題解決は不可能であると判断しまし、厚生省薬事局の審議官に直接お目にかかり、法律の問題の前に、国際社会の中における日本の実態、世界の厳しい意見、そしてザ・ボディ・ショップ店頭における「詰め替えサービス」の実態などについて、写真や各国からの意見を交えてご説明し、何とか知恵を出し合えないかとご相談を続けていきました。

問題となっていたのは、薬、医薬部外品、化粧品を同格に扱う日本ですので、ザ・ボディ・ショップの店頭での詰め替え作業(行為)に対しても製造工程や衛生管理者を置く必要がある、と規定する薬事法の存在でした。1年に1回開催される英国での会議で散々批判される日本の実態や対応なども詳細にご説明し、意見交換を重ねていくなかで「ザ・ボディ・ショップの店頭でのリフィル・サービス」 を“製造”と定義づけするから解決策がみつからないわけで、“店頭サービス”と解釈してはどうか、ということになりました。その結果、薬事法に抵触することなく、都道府県の衛生局レベル、つまり行政指導ベースで対応しようということになったのです。

当初から関心を持ち、2年間継続して取材を続けてくれた NHKの記者の方は「ザ・ボディ・ショップ提唱の店頭での詰め替えサービスが始まる」というその日、「 “詰め替えサービス”とは、どんなものか」「詰め替えサービスを求めて本当に客は来るのだろうか」などの関心のなか、朝から取材に来てくださり、夕方の5時、6時、7時、8時、10時のニュースジャーナルでも取り上げていただきました。わたくしも、一日中、表参道店での対応に忙しくいたしました。

ザ・ボディ・ショップは、ビジョンが全く異なるため、当然のことながら化粧品協会にも入っていませんでした。もう時効でしょうからお話しましょうか。。。記者の人たちの情報によると、化粧品協会が緊急理事会を開いて、「“ザ・ボディ・ショップの木全社長は余計なことをしてくれた。重要なことはどこの社も追従しないということである”という点が申し合わされ、彼らは血判状を押した」というのです。それに対して「そうを」と平然としているわたくしに、「彼らは、三流雑誌に2~300万円を渡して、“ボディ・ショップで詰め替えたシャンプーを使ったら、こんなに顔がただれてしまった”と的な記事を載せて反撃に出てくる可能性さえありますよ、などと脅かすのです(笑)。

―― うーむ、なんと申し上げていいやら。。。村社会というか。。。怖くなかったのですか。

木全氏: まったく怖くなかったです。「私たちは、きちんと教育マニュアルを作成し、徹底的に訓練を行って詰め替えサービスを実施いたしますので、もしもそういうことがおこなわれたら、わたくしは堂々と記者会見に臨み「それは、嘘です」と言明いたしますのでご心配なく」と記者の皆さんにご説明しました。結局、何も起きませんでしたけどね。

―― それはよかったです。ちなみに、調べたところ、英国の本社が変わってから、リサイクル原料を使用した容器の使用に視点を移していて、現在では「詰め替えサービス」はやってないようですね。

木全氏: そうですか。日本でも、近年では、「詰め替え商品」が当たり前のように出回る時代になっています。店頭での詰め替えサービスの意義が変ってきたのではないでしょうか。

話はかわりますが、人材についてもいろいろ考えさせられました。英国本社や世界の市場の方々への対応等のできるスタッフを採用しようと、英字新聞で求人広告を出しましたら、1人の求人に対し250人もの女性が応募してきたのです。英検1級所持者や大学院卒・留学経験者も大勢いらっしゃいました。ところが、皆さん素晴らしい履歴書なのに、主婦、つまり無職だったのです。

―― 今のお話は、この国には高学歴の女性人材が埋もれている点を具体的に示す良い例ですね。

木全氏: そうです。そういう人材が社会と接点をもつことでより輝いていくことは素晴らしいことです。彼女たちの頑張りもあり、お蔭様で在任中の10年間で、表参道の一号店を皮切りに全国130店舗を展開し、2年目には単年度黒字化に、3年目には累損一掃、4年目には無借金経営を成し遂げました。売上も100億円弱にまでいきました。また、環境保護・人権擁護・動物愛護の分野での社会変革キャンペーンを35回実施しました。

―― 素晴らしいですね。駆け足でミツ先生の人生を振り返っていただきましたが、心から感動しました。ありがとうございます。それではいくつか質問させてください。ミツ先生は逆境をすべて乗り越えてこられたように思いますが、「これをやっておけばよかった」と思い残していることはありますか。

木全氏: いくつかありますが、一つ挙げるとすれば、母と一度でいいからじっくり人生を語り合ってみたかったです。基本的に文学少女で、字も綺麗で文才もあって、きっと本を書きたかったのではないか、と。ただ物理的にはまったく不可能であることをわかっていたし、やはり大学生、高校生、中学生、小学生の子ども達を前にして、母親業でてんてこ舞いでしたからね。夜食の準備なり、入学や卒業の準備なり、わたくしたち7人の受験、学業、卒後等に付き合うだけで、結局40年間もの歳月が流れてしまいましたから。

―― 当時の主婦の人たちとは時代も違いますが、今の時代の主婦の方たち、あるいは女性全般に向けて、なにか大先輩としてメッセージをいただけますでしょうか。

木全氏: 昔と違い、今は大学全入の時代のようですが、それでも日本には教育を受けた優秀な女性がたくさんいらしゃいます。ですが、残念なことに、戦後70年間、義務教育、高校、大学、大学院、さらに留学と親御さんのお金や国民の税金を湯水のように使って高等教育を受けながら、受けた教育を活かして、生涯を通して社会にお返しするという国際社会の常識がこの国には欠けているように思います。もちろん例外はたくさんあります。しかし、一般論として、男性も女性も、大学の卒業証書を結婚のライセンスぐらいにしか思っていないように見受けられます。もしそこに少しでも真実の要素があるのでしたら、絶対に改めるべきでしょう。「何のために大学教育を受けているのか」「還元という視点に立ち、いかに社会に貢献していくのか」という問いに対してしっかり答えを持って生きていく人が、「教育を受けた人」だとわたくしは考えております。

いずれにせよ、男中心社会に甘んじてきた日本社会では、国家の人的資産である大卒女性のスキルを活用してこなかったわけですから、そうした埋蔵資産を塩漬け状態にしておくのは国益に反します。一方で、専業主婦の座に甘んじて、狭いキッチンのなかに安住し、子供にだけ関心をよせる人生は再考すべきではないでしょうか。人それぞれ価値観は違うとはいえ、基本的に、人間は誰でも社会とのつながりをもつべきです。そうしないと、社会性が著しく欠如してしまう生き物として、社会のお荷物になるばかりだからです。

これからも確実に女性のほうが長生きします。ただ、寝たきりの人たちを見ても、やはり女性が多いのです。しかもその費用を負担しているのは、夫ではなく、家族や社会、国庫という現実を直視すべきでしょう。これからの皆さんは、夫が1人で、妻と子供を含め家族全員の人生に責任を持つのはより一層困難になっていきますし、そもそもそれは不自然なことなのです。男女ともに経済的自立を果たし、仕事、家庭(家事・育児)、コミュニティなど、いろいろな面で自分の責任をひとりひとりが果たしていくことが、日本をより健全な社会にしていくのではないでしょうか。

現在わたくしは、渋沢栄一や伊藤博文たちがつくった団体にルーツをもつ「認定NPO法人JKSK女性の活力を社会の活力に」の理事長を歴任し、現在は会長として、「有能な男性と有能な女性が存分に能力を発揮する、発揮できる健全な社会の実現」のお手伝いをしております。過去から今の時代まで脈々とこの国に引き継がれている“良妻賢母”思想へのアンチテーゼです。言うまでもなく、停滞した日本には女性の活力が不可欠。女性目線で「何かおかしいわ」を洗い出して発信しています。

―― なるほど、素晴らしいですね。ただ、学歴は結婚のみならず、“就職のためのライセンス”と考えている人も少なくないようです。どちらにせよ、長期的な視点ではなく、短期志向であることは変わらないのですが。。。

木全氏: “就活”と呼ばれているそうですが、非常に懐疑的です。「私は30社、50社を受けました」と得意になっている姿を見るにつけ、疑問なしといたしません。“30~50もの企業ということは何を意味するのでしょう。全く絞りこめていない、つまりどこでもいい、ということではないのでしょうか。就職難のなか、“ないよりマシ”という発想なのかもしれませんが、その様な過程を得て手にした就職口は、生涯を通して、あなたが本気でやるべき仕事なのでしょうか。実際、就職後、数年のうちに辞めていく人が少なくないようですし、辞めなくても愚痴っている人が多いのが現実ではないでしょうか。

先ほども述べましたが、わたくしにとっての就職活動の前提は、「自分はこういう能力を持ち、その能力を存分に発揮して社会に貢献していきたい」という明確な志をもって、「自分を選ばぬ会社など興味なし」という毅然とした態度が重要で、「もし、自分を採用しなかったら会社は機会損失する」と面接官に思わせるぐらいの力を事前にしっかりと身につけておくことが大切ではないでしょうか。

―― ありがとうございます。ミツ先生とお話していると、ともすると忘れがちな「誇り」と「気概」の大切さについて気づきをいただけます。私自身、“自分を徹底的に知り、自分の命(めい)に沿った生き方をすべきだ”という考えをもっており、先生のお話にはとても共感するのですが、いろいろなところで発信していて、「あなたはできるかもしれないけど、できない人はどうすればいいのか。ほとんどの人はできない、という現実を認識しているのか」というフィードバックをいただくことがあります。確かに自分をわかってない人は少なくないのでしょうが、だからといって“知ろうとしない”のは、能力とはちょっと別次元の話だと思うのです。

木全氏:スティーブのいう「命」につながっていく話ですよね。「自分が本当に好きなものは何か」「社会の中で、自分はどのように役に立っていったらいいか、役に立てるか」を徹底的に自問自答することが大切ではないでしょうか。決して大きなことではなく、“自分らしく”という意味です。それでも、なぜか多くの日本人はそれをやらないようですが、能力的にできない人なんていないはずです。最近、若い男の人にはあまりお話しする機会がありませんが、お話しさせていただく女性の皆さんのなかには、わたくしの言わんとしていることをきちっと感じとってくださる方が大勢いらっしゃいます。

―― 素晴らしい、それはこれからが楽しみです。さて、”世間様教”の熱心な信者として、これからも変わらず、「親がいうから、先生がいうから、周囲がいうから、偏差値やメディアや就職ランキングが良いというから」という20世紀型日本的価値観に支配され、世間様&他人の価値観にもとづき、「良い学校、良い会社」を選ぶ、つまり ”自分で選択しない人生”を生き続けるとすると、日本はどうなってしまうのでしょうか。

木全氏:「自分で選択した」という事実だけが、どんな時でも、どんな難問に直面しても自分を支えてくれます。わたくしの場合、男性組織の官僚社会に大学出の女性なんて当時いませんでしたから、ある意味では毎日が戦いであったかもしれません。そんななか、日本の男社会が悪いと世の中を批判してもなんの問題解決にもなりません。

この保守的な日本社会で女性が一生涯仕事をしていこうと思ったら、ガラスの天井があったり、足を引っ張られたり、いろんな不条理があります。その時に自分を支えてくれるのは「自分で選んだ道ではないか」というその一点だけだと思います。進路を決めるというのは、本来そういうことではないでしょうか。

―― よくわかります。私も15年ほど前から様々な媒体で「原因他人説ではなく、原因自分説をとれ」と偉そうに言ってきましたが、ミツ先生の説明の仕方のほうがわかりやすいですね。さて、仮に今後、相当厳しい経済状況、たとえば国債暴落、ハイパーインフレ、超格差社会、アジア戦争などが起きたとして、それでも日本民族が生き抜くための知恵があるとすれば、それは何でしょうか。

木全氏: 習近平が明確な世界戦略を描き、歩をどんどん進めているなか、“世界戦略をもたない国”日本は、そして日本人はどうなっていくのか、というご質問ですね。資源もない日本は独りでは生きていけません。これまでは、日米同盟が健在という前提で、ある程度安定した国家運営ができましたが、今後その前提がいつまで続くのか、という視点に立つと、日本が生き残っていくためになすべきことが見えてきます。

それは、世界のどの国とも友好関係を維持していくことなのです。どういうことかというと、現在、年間2000万人近くの日本人が旅行・仕事を含め海外に出かけています。わたくしが思うのは、観光、ショッピング、美味しいものを食べるだけでなく、訪問先で現地の人々に接して、時と空間を共有し、その国を知り、日本を知ってもらう努力のなかで、友人をどんどん作っていってほしい、という点です。

もしもすべての日本人が、生涯を通じて、世界200数か国のどの国でもいいから、心から信頼できる人、つまり困難に直面した時に真っ先に国際電話で相談できるような親友を一人でもつくることができたら、日本が厳しい状況下に置かれたときに地球上に1億人超の親友が存在することになります。つまり、「日本を知り、日本が好きな人」「日本のことを日本人にかわって代弁してくれる人」「日本人を必死で助けたいと思う人、そういうアクションが取れる人」たちが1億人もいることになるのです。

わたくしは、イスラム過激派組織による湯川氏と後藤氏の殺害事件に際し、日本政府の無策さがさらけ出されたときに、このことを一層実感しました。テレビにはたくさんの“専門家”と称する人たちがでてきましたが、彼らは現地にどれだけ足を運び、人々と交流し、どれだけの人々を知っていたのでしょうか。あの時現地の友人たちとコミュニケーションをどれだけおとりになっていたのでしょうか。親友をもっていたのでしょうか。単に自分の研究や論文のための知識でしかないとすれば、有事において、それは役には立ちません。とは言うものの、たとえそういう専門家であっても、今後は、有事において彼らを少しでもうまく活用する方法を模索していくべきではないか、とも同時に感じました。

―― 「世界に1億人の親友を作れ」・・・まさに、空(くう)、つまり「人は人と人のつながり<縁起>の中でしか生きていけない存在」という仏教の教えを具体的に体現できる素晴らしいアイディアですね。最後に、私が個人的に長年考え続けているテーマである「21世紀の日本人像」について、ご意見伺えますでしょうか。これからの日本を背負っていく人たちへのメッセージとして。

木全氏:わたくしの生き様の根底にあるのは「この日本をどうしたらいいのか」「日本のために何ができるか」「アジアの一員として、地球上に住む1人の人間としてどのような生き方をしていったらいいのか」でした。それがすべての行動の判断軸だったのです。

世の中を変えたいと思うなら、現実の社会を知り、良し悪しは別にして、その現実をある程度認めながら、体験を通じて自分の言葉、つまり一人称で語れるようにならなくてはならないと考えております。一人称で語られる言葉は人の心をうちます。そういう言葉に感動した相手は、必ず変わっていきます。そして、それがいずれ変革のうねりにつながっていくのではないでしょうか。本で得た知識や人から聞いた話では、たとえどんなにうまく話したとしても、人を感動させることはできないのではないでしょうか。できるだけ多くの体験、経験を積んで、相手を魅了する能力を備えた人になり 、内側からにじみ出てくる美しさで輝いていけたら最高ですね。

それから、志を高くもって生きていきたいですね。「志の高い人」とは、まず心身ともに健康で、自分以外の誰かのために役立つ力を身に着け、現象の大海原のなかで本質的な問題を見極め、具体的解決策を立てて行動にうつし、ネットワークを用いて力を発揮できること、そして、何より重要なことは、“事をすすめる”ことです。自分の構想を実現していこうとすると、必ず資金が必要になります。ですから、自らが、経済力を持つことと、その上で資金調達に必要な力を発揮できることも含まれます。いずれにしても「経済的自立」は大切なことですね。

それから、スティーブが『クーリエジャポン』で書いていた「グローバル化」の定義はいいですね。共感します。

 

「世界がどんなにグローバル化しようとも、文化や個人毎の差異は決してなくならない。それを冷静に見つめ、寛容な気持ちをもって相手と接し、起こりうる摩擦を最小化する。その過程で、できうる限り最大公約数を見出して共感を醸成し、自ら立てた目的を遂行できる人。そういう人たちを一人でも多く生み出す社会変革のうねりこそ、グローバル化の本質といえよう」

 

わたくしは、いつの日か、能力ある男性と能力のある女性がその能力を発揮しあって50:50のバランスのとれた、すなわち、健全な日本社会が実現することをいつも心の片隅で願っております。

―― ミツ先生、今日は長時間にわたり貴重なご意見をたまわりありがとうございました。最後に読者の方々に向けて、チェコの作家クンデラの言葉で締めたいとおもいます。

「一国の人々を抹殺するための最初の段階は、その記憶を失わせることである。その国民の図書、文化、歴史を消し去った上で、誰かに新しい本を書かせ、新しい文化を作らせて、新しい歴史を発明させることだ。そうすれば間もなく、その国民は、国の現状についてもその過去についても忘れ始めることになるだろう」 - ミラン・クンデラ -

 

 


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著者紹介

スティーブ モリヤマ (Steve Moriyama)

☆☆☆ベルギー王国ブリュッセル在住 。英国ケンブリッジ大学院及びカトリック・ルーベン大学院(ベルギー王国)修士課程修了。米国ハーバードビジネス スクール GMP 修了。イングランド・ウェールズ勅許会計士協会上席会員 (FCA)、ベルギー王国公認 税理士協会正会員 (CTC)。『人生を豊かにする英語の名言』『英語社内公用語化の傾向と対策』など著書15冊。雑誌連載は、『クーリエ・ジャポン』『月刊・事業構想』『GOETHE』『日経ビジネスオンライン』など。好きなものは、海、酒、旅、犬、活字、薔薇。  フェイスブックID: meigen777 

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