【Steve’s Bar】連載第2回 【愛の反対は“無関心”】
(写真:前方:木内孝 御成門新報代表、後方:筆者)
―― 1935年ドイツ・ハンブルグ生まれの木内孝さんは、父方のお祖母様の磯路様が岩崎弥太郎氏の娘さん、母方のお祖母様のタキ様が福澤諭吉先生の娘さん、叔母様(お父上の妹さん)の登紀子様が渋沢敬三氏の奥さんという、近代日本の名門のご出身ですが、なぜかスノビッシュな感じがしません。日本を代表するお三方のご縁の連鎖のなかでこの世に生を享けたわけですが、一番影響を受けたのはどの血筋でしょうか?
木内氏: スティーブにまくしたてられると調子が狂いますね(笑)。自分で言ってはお話になりませんが、どうってことはないというのが本音です。型にはまったことが苦手なんです。タクシーにも乗りません。お薬も飲みません。ただ、「言ったことは必ず実行する」をモットーに、倹約、健康、謙虚の“三ケン”で生きてきただけです。この写真面白いでしょ。僕は、いわゆる帰国子女のはしりです。真ん中のよちよち歩きの子供が僕。秩父宮ご夫妻が英国をご訪問になった昭和13年に当時ロンドンにいた日本人が集められて撮られた集合写真です(スペースの関係で写真の左手部分のみ抜粋)。中央には吉田茂駐英大使ご夫妻がおられます。
―― 1937年当時のロンドンの日本人社会の縮図ですか。これは貴重な写真ですね。
木内氏:このカットした部分には写ってないけど、向かって左のほうにいた母親によちよち近づいてるんです(笑)。当時イギリスには、数百名しか日本人がいなかったんです。父が横浜正金銀行(東京銀行の前身)に勤務していた関係で、僕はハンブルグで生まれたんだけど、3歳から5歳ぐらいまではロンドン北部のゴルダーズ・グリーンに住んでいて、これは当時の写真です。
―― それは奇遇です。私もロンドンで暮らしていた時、ゴルダーズ・グリーンに住んでいました。やはり木内さんとご縁があるんですね。
木内氏: ほぉー、それは奇遇ですね。僕はロンドンに何か惹かれるものがあって、カナダの大学院を終えたあと、英国に飛んでかつて住んでいた家を見に行ったんです。大きな家だと記憶していたんだけど、大人になって行ってみたら、たいした家じゃなかった(笑)。
―― そうですか、実は僕も同じことをしました。そろそろイギリスを離れて20年ですが、数年前に当時暮らしていた家に行ってみたんです。感慨深かったです。
木内氏: わかる、わかる。さらにね、3歳までしかいなかった湖のそばにあったハンブルグの家にも行ってみたんです。同じく対して大きくはなかったけど、記憶にないはずなのになぜか懐かしく感じられました。
―― なんか気が通い合っちゃいましたね(笑)
木内氏: だから「気が合う」ってコトバがあるんだよ(笑)。ちなみに、明治35年生まれの僕の母親も大正時代の中頃イギリスに6年間も留学してるんです。
―― その時代にイギリス留学ですか。
木内氏: 明治9年生まれの祖母タキの思いがそういう形になって顕れたんだろうね。娘達を学校に通わせてくれない父親(福澤諭吉)への抵抗もあったのか、自分で猛烈に英語を勉強してたみたいです。強制的に若くして結婚させられちゃったけど、夫(志立鉄次郎・大正時代の日本興業銀行総裁)への抵抗心や対抗心もあったのだろう。二人の娘が香蘭女学校を卒業すると、すぐに英国へ各々8年間・6年間留学させたんです。母の姉である伯母は、明治30年生まれ、僕の母親・多代は明治35年生まれですから、単身シャーボン女学校へ送り込まれた彼女たちの経験は、おして知るべしです。
―― 当時はきっと今よりも何倍も男性社会だったのでしょうね。それだけ向学心があるお祖母様ですと、きっと忸怩たる思いがあったのかもしれませんね。その思いを、当時稀だった娘さんたちの留学で昇華させたのでしょうか。
木内氏: 昇華させたのかわからないけど、タキはエネルギッシュな人でね。クリスチャンだったこともあって救世軍を助ける仕事をしていたんですが、その後YWCA・東京キリスト教女子青年会を設立して、20年ほど東京YWCAの会長をしてたんです。
―― なるほど、お祖母様は、働く女性の先駆者だったのですね。まさに女性の力が社会に不可欠な、今の時代のロールモデルになれますね。
木内氏: あの諭吉でさえ「女には学は要らない。早く結婚せよ」という感じだったわけだから、当時の男性中心社会では、きっと相当肩身が狭い思いをしたんだろうね。そのあたりのことについて週刊朝日に徳川夢声との対談記事が載ったことがあります。それから、もう一人、思想家の丸山眞男先生との『ふだん着の諭吉と英語教育』という長時間対談も残っています。
―― 今度読ませていただきます。そういうお祖母様の血のせいでしょうか、木内さんは同年代や年上の女性で、今でも社会で活躍し続けている人たちと気が合うのでしょうね。
木内氏: 今度、木全ミツさんという人を紹介するから、いろいろ聞いてみてください。とにかく、日本の女性への啓蒙運動というか、色々しなくちゃならないと思ってます。たとえば、論語では女性のことが一切触れられていないんです。そういう問題点も日本の若い人たちに知ってもらいたい。女性の重要性を加筆した『論語の21世紀版』を専門家に書いてもらうのが僕のささやかな夢です。
―― なるほど、それは面白そうですね。さて、5歳までロンドンで暮らして、それから日本に戻ったそうですが。
木内氏: 日本に戻って森村学園幼稚園そして初等部に入るんだけど、すぐに戦争でね。。。最初は栃木県の出流原(いずるはら)に集団疎開しました。その後、祖父母がいた御殿場の家に疎開しました。
―― 大変な時代に日本に戻られたんですね。戦争を知る世代として、我々あるいはもっと若い世代に伝えたいことはありますか。
木内氏: 僕の五感は皆さんと違うのかもしれませんが、スマホで大切な時間を無駄にしてはいけません。アインシュタインが亡くなる一年前の1954年に「世界は今に馬鹿者の時代になる」と予言しました。まさにその通りになってます。近代オリンピックの生みの親ピエール・ド・クーベルタンは「1世紀も経つとオリンピックはにっちもさっちも行かなくなる。そうしたら一世代 30年くらいお休みすることだ」と喝破してます。まさに現在の“お金まみれ”の時代の到来を予言してるんですね。
―― 先を読むにはどうすればいいのでしょうか。
木内氏:未来を予測する情報は人間の頭の中にあるんです。情報って、人間対人間のぶつかり合いの中から生まれてきます。道は、願っていると、自然に開けてきます。全部他動的に世の中は動いているからです。スマホ好きの人が、いつスマホの害を感じることができるのか。バカは死ななきゃ治らない、という言葉もありますが、早く気づいて欲しいです。
―― 仰っているのは、二つあると思います。一つは、この前早川さんとの対談でもお話した空(くう)、つまり「人は、人と人のつながりの中でしか生きていけない生き物」という点。もう一つは、インターネット社会への警鐘でしょうか。なぜかこの作家の言葉を思い出しました。 「一国の人々を抹殺するための最初の段階は、その記憶を失わせることである。その国民の図書、文化、歴史を消し去った上で、誰かに新しい本を書かせ、新しい文化を作らせて、新しい歴史を発明させることだ。そうすれば間もなく、その国民は、国の現状についてもその過去についても忘れ始めることになるだらう」 ・・・チェコ人の作家にミラン・クンデラという人が『笑いと忘却の書』という本の中でこんな言葉を残しています。たぶん、木内さんのおっしゃりたいのは、情報過多の中で本質的なことが忘れ去られていくことへの警鐘、つまり戦後の日本が、現在を含めまさにこの状態にある、ということではないでしょうか。
木内氏:1945年8月15日に戦争は終わり、その翌日から占領が始まりました。サンフランシスコ講和条約が1951年9月8日に調印され、1952年4月28日に発効してます。この6年8か月と12日(1945年8月16日から1952年の4月28日)の間に何が起こったと思うかい。
―― うーむ、わかりませんが、クンデラの『笑いと忘却の書』に反応されているわけですから、当局による意図的な忘却誘導に対する抗い、つまり“記憶との戦い”に関係するのでしょうね。
木内氏:そうです。まず、日本語がすっかり変わってしまったんだよ。当時使用が許された漢字の数は、それ以前と比べて一気に五分の一になり、多くの漢字は簡略化され、ひらがなの使い方も変更された。“効率性”の美名のもと正当化されたんですが、その結果、我々はわずか百年前に書かれた文章さえ読むことができなくなってしまった。たとえば、明治天皇による数多くの重要な声明も、今の日本人は味わうことができないでしょ。
―― 歴史教育なんかもそうですよね。縄文時代から始めるので、結局近代になる頃に時間切れになってしまいます。 木内氏:その傾向も、まさにさっきの“6年8か月”の間に生まれたんだよ。日本の歴史教育では、東洋史は外され、世界史と19世紀以前の日本史がメインになりました。今の日本がどうやって作られてきたかを知るには、本当は1930年頃、つまり第二次大戦前の日本の構築に貢献した多くの重要事件や人物について学ぶことが不可欠なのですが、皆さんの記憶からは見事に消されてしまっています。
―― つまり、我々は“記憶との戦い”に敗れたわけですか。。。
木内氏: ええ、そうです。ちなみに、親父もファイターで、ここの町名(狸穴町)を残すことに情熱を燃やしながら、“記憶との戦い”をしてました。住居表示に関する法律が成立した昭和37年以降、歴史ある町名が次々と消えていく中、永坂町のブリヂストン創業者の石橋正二郎氏らとも連携して「歴史的価値のある町名はきちんと後世まで残すべきだ」と主張して、行政と戦っていました。その結果、最後まで残ったのが僕が住む麻布狸穴町と麻布永坂町でした。この二つは、東京で最も小さなコミュニティーといえるのではないでしょうか。
―― なるほど、お父上のお蔭でこの町の名前は残ったのですね。若い人は、狸穴を“まみあな”とは読めないでしょうが、きっと昔は狸がいたのでしょうね(笑)。コミュニティー貢献といえば、アメリカが有名ですが、通算20年弱過ごされたアメリカで木内さんはどんな地域貢献活動をされていたのでしょうか。
木内氏: 二回目のロスアンゼルス駐在は88年から97年でしたが、その頃知り合ったアトランティック・リッチフィールド(ARCO)という大きな石油会社の会長から「この国のコミュニティーは我々の手で作るのだ」という話を聞き刺激を受けました。火事で蔵書を紛失した市の図書館のための募金集めやシティーコープのビルを借りて、ストリート・アーチストに市のオーケストラの絵を描かせることなど、いろいろやりました。
―― この写真はインパクトありますね。ビルの壁面一杯に音楽家たちの絵が描かれていて圧巻です。さて、三菱電機に長年勤められ、引退されてから環境保護活動の世界に足を踏み入れられたようですが。
木内氏: 驚くなかれ、僕は三菱電機に40年も働いてたんです。そのうち半分近くは北米で働いてました。その間、いったい何度「君は日本国に何も良いことをしていないのを自覚しているか」と親父に尋ねられたことか。まだ会社勤めをしていた頃、マレーシアのサワラクの熱帯雨林を訪れました。親子の象が宿泊施設の近くをのそのそ歩いているような、心が癒されるジャングル。ところが、当時でさえ、すでにかなり森林は伐採されており、丸坊主になってしまっているところが多かった。ある朝、目覚める寸前に、頭の中で「起きろ」という声が聞こえたのです。
―― 第六感で自然の気を感じたのでしょうか。どんな声だったのですか。
木内氏:「我々はここで平和に暮らしている。お前たち人間は諸悪の根源だ。人間さえいなければ自然界は幸せなのだ」という声でした。当たり前ですが、人間は自然の一部です。だから、自然のルールを守らなければならない。ですが、自然についての知識が著しく欠けていてお話になりません。たとえば、熱帯雨林って、本来は素晴らしい生態系なんです。理想的なリサイクル社会だったのに、人間たちがそれを破壊してしまいました。これだけ哲学者や賢人がいて、どうして世の中こんなことになるんだろう。人間は、経済や私利私欲、利己主義で突っ走ると、原発をはじめおかしなことをするものだって、どうして見抜けないんだろう。何故の嵐です。自然は無駄なものは作らないんです。だから自然にはゴミがない。全体のバランスが取れています。そのことは38億年の検証を経て確認できていることなんです。
米国三菱電機の社長をしてた頃、ワシントンで開かれた熱帯雨林保護団体の会合に参加したのですが、初っ端から「お前の会社は、世界中で最もイメージの悪い会社だ」と嫌味を言われました。それ以前から三菱グループを含めた日本企業が世界中の熱帯雨林を破壊して商売をしており、米国市場における製品不買運動など環境保護団体のターゲットになっていたのです。
しかし、めげずませんでしたよ(笑)。「2か月前にサワラクを訪れて目が覚めた。あなた方と戦う意志はない。人間は自然の一部。にもかかわらず、我々の自然に対する認識のお粗末さはひどすぎる。自然は失敗しない。唯一の失敗は人間を作ったことだ。皆さんと共に熱帯雨林を守りたい」と話したんです。そうしたら、環境活動家たちから、拍手がわきあがりました。
―― 木内さんの気合いが伝わったのでしょうね。
木内氏: そうです。気が合ったのでしょう。もう一つこの道に入ったきっかけは、メコンプロジェクトという貧しい人たちの支援活動をしていた娘から言われた一言でした。「お父さん、お金儲けしている暇はないのよ」と。それで、親父からいわれた「君は日本国に何も良いことをしていないのを自覚しているか」もあり、三菱電機退職後に「これからは日本、そして世界に良いことをしよう」と、イースクエアという企業の社会的責任(CSR)関連の会社を作りました。
―― どんなお仕事をされているのでしょうか。そういえば、イースクエア代表として、以前ノーベル賞を受賞したIPCC(気候変動に関する政府間パネル)主催の会合でお話されてきたとのこと。その総括を含め、最後に、木内さんから読者の方々にお伝えしたいメッセージをお願いします。
木内氏: わかりました。2月上旬にインド・デリー市で開催された第15回Delhi Sustainability Development Summit (D.S.D.S.) に招かれたお話をしましょう。
インド国の人たちとはいろいろ議論をしてきました。ちょうど20年前の1995年(平成6年)にバンガロールを訪れた時、一人の初老の男性と話がもつれ「日本はダメな国だ。たった数十年で昔から大切にして来た日本の魂を捨てちゃったじゃないか。インドを見てくれ。900年経ってもインド魂を大切にしているんだ」と。
冗談じゃないと若干ムッとしましたが、言い争いをしないで、家に戻って妻にその話をすると「私は900年も貧乏するの嫌よ」の返事が返って来ました。皆さんはどちらに軍配を上げますか。インドの方々の根性には敬意を表しますが、4児の母、8人の孫の祖母としての50年間の妻の人生観の理解者でありたいですね。
以前からインド人の立て板に水の話し方は性に合わないと思ってましたが、最近は違うのをご存知ですか。ゆっくりわかりやすく話すインド人の方が増えてきました。大事なのはその必要性を感じ取る感受性と勉強しようと云うヤル気です。インド人の必死に現世で生き抜くための努力に脱帽です。
インドの東側、チェンナイから南に200キロいった所に1968年に創った世界最古のエコ村・オーロヴィルがあります。新規に自分たちの納得が行く村創りを半世紀近く掛けて続けているわけです。僕の関心を惹いたのは、見ず知らずの人には来て欲しくないので、地図も道路標識も存在させない点でした。
先ず度胆を抜かれたのは開会の前日深夜・午前1:15にデリーの飛行場に到着した途端に、柵に寄り掛っていた人から「あなたの出番は最終日の午後3:45だよ」と声を掛けられたことでした。この会議は神経が通っているぞとの印象を強烈に受けました。
事前の準備として、何が起こっても僕の話のテーマは「しみじみ」だ、と先方に連絡しておきました。「しみじみ」をどのように英訳するかを悩んだ末、Quietly and Deeplyと訳すことに決めました。静かに(Quietly) と深く(Deeply)の訳は良い結果を生んだと思います。自然環境問題は「静かに 深く」対応するに限るという思いです。これは今後も続けていきます。
私のお役目は最終日の15:45に8人の宗教団体の代表と壇上に上がり、8人の発言を理解し咀嚼してSetting the Context(各人の発言を整理)のお題のもとに総括することでした。8人の宗教団体の代表は、みなさんよく喋る、宗教の話は難解である、しかも最終日・最終回ですので時間の制限ナシ。窮余の策として私が編み出した考えは、次の通りでした。
「1962年の沈黙の春、1972年の成長の限界以来、自然環境の崩壊を防ぐ努力は決して我々に有利に展開していない、それどころか残念ながら形勢は我々人類の側に不利といわざるを得ない。その原因は一般人の無関心にあると私は考える。我々は援軍・助けを必要としている。世界には日本のように天皇・皇后で代表される皇室が存在する国、英国のように女王・国王が君臨する王室が君臨する国が全部で27ヵ国存在する。私たちはこの27ヵ国の皇室と王室に協力を依頼してはどうだろうか。5年前に訪日された英国のチャールス皇太子にこの考え方を私はお伝えし賛意をお受けしました。皆様はどのようにお考えになりますか」
―― なるほど、確かに王室や皇室を動かすことができれば、状況は大きく進展するでしょうね。この会合のアクション・プランはどのようなものだったのでしょうか。
木内氏:D.S.D.S.としての行動計画のようなものはこの会合では作成いたしません。各人が主体性をもって、各人の考えを粛々と行動・運動を通して世論形成をしていくのが我々のやり方です。日本では天皇・皇后の行動やお言葉が一般に最も尊敬されます。我々がチャールズ皇太子を通して天皇・皇后にお願いしたことは、ただ一つです。一般国民にお話しされる時に「私たちも最近の気候の変化に心を痛めている」とおっしゃって戴きたいと、そう申し上げたのです。
―― やはり言葉の力ですね。おっしゃる通り、諸悪の根源は“無関心”です。愛の反対は、憎しみではなく、無関心だと思っています。今日は長時間どうもありがとうございました。
コメント
- コメント
- コメントはまだありません
- コメントはまだありません