「リーダーシップ」再考
「リーダーシップ」という言葉は、わが国ではかつてはあまり使われていなかったように思う。特に戦後はむしろその言葉を避ける風潮すらあったと言うべきかもしれない。しかし近年とみにこの言葉を耳にする機会が増えてきた。その言葉を口や文字にする人たちのイメージするリーダーシップはどのようなものだろうか。
物事が順調に推移し、格別不安が募っていない状況においてリーダーシップを求めることは稀で、人々が「○○さんには強いリーダーシップをとって欲しい」とか「リーダーシップが足りない」などと言うのは、脅威や不安など、つまり危機意識を持って「誰かにこれまでの政治や経営などの状況を大きく変えてほしいと願望する時が多い。ここで注目すべきは、より激しく、急速な変化が絶え間なく生じていて「危機意識」を迫られることの多い昨今の環境のことであり、そこへの対処である。いかなる人の集まり(以下「集合体」と呼ぼう)でも、集合体には維持あるいは達成するべき状態(「目標」)がある。周囲の状況は時々刻々変化するため、その目標とされた状態もそれに合わせて変えないと、集合体の存続が脅かされ、あるいはその存在や営みの意義を喪失することになる。企業や国の比較優位性の喪失などはその典型的な一例であろう。こうした変化への予見や対処は、各集合体の中の誰が決め、誰が行うのだろうか。前述のリーダーシップの概念にあっては、それらはすべからくリーダーの役目のように見受けられる。とするならば、リーダーは個人として完璧なほどの洞察力と指導力、それも往々にして集合体のメンバーそれぞれが慣れ親しんだ行動のしかたを変えることを伴う形で実行する能力を備えていなければならない。しかしそのような万能の、恰も神のような能力を持つ個人が企業、国などを率いて現実的に何十万人、何百万人も居ると想定するのは現実的だろうか。過去において各界に人並すぐれたリーダーがいたことは事実であるが、彼らの時代と現代をくらべると、現代の環境変化の速度と幅は過去と格段に異なり、求められる洞察の範囲も個人の能力を超える。このように考える時、冒頭に書いたようなリーダーシップの捉え方ではない、新たなリーダーシップの概念が広く認識される必要があるように筆者は思う。
鉄道において新幹線が新しい概念をもたらしたことを思い出してみよう。列車が運ぶ旅客や貨物の重量と走行スピードを増すために機関車を強力なものにするのが長らく主流であったが、新幹線において、すべての車両にモーター(動力)を搭載してひとつひとつの動力源は小型にする方式に変えたことにより、列車全体をスリムで空力的に合理的なものにし、走行スピードをかつてないレベルに飛躍的に上げると共に快適な乗り心地も可能にした。それを運転する上でより重要なことは、運航意図を有効に各々の、そして全部の車両のモーターに伝達することとなった。このことを鉄道におけるパラダイム・シフトとして参考にしつつ、集合体の運営を新幹線の運転士の役割に似たものとして新しいリーダーシップを考えてみたい。紙幅の都合でごくかいつまんだ形で整理してみると次のようになる。
まず、集合体の置かれた環境、進むべき方向とそこに向けて辿るべき手順、すなわち「ビジョン」の見極めである。これはリーダー個人の感性に頼る判断ではなく、最大限の客観性を持つ状況把握と分析を通じて行われなければならない。ここでのリーダーの役割は、自分が勝手にビジョンを書くのではなく、正しい形でビジョンを作成するプロセスが行われ、当該集合体のメンバーおよび関係者(ステイクホルダー)の誰にでもわかりやすく仕上げられることを担保することである。
次にそのビジョンを有効に伝達することである。ビジョンを受けてメンバーが苦労も厭わずに「熱い心」をもって努力する気持になるように伝えなければならない。リーダーのコミュニケーション能力が最も問われる局面である。ここで大切なことは、共に努力する「目標」が、その当事者だけの利益に留まらず、コミュニティ、産業、国、グローバルコミュニティといった上位の観点において意味があるものとして示されること、そして苦労の先には「みんなにとって明るい状況」があるということを示すことである。世界で過熟した資本主義の弊害が指摘される時代にあっては、このことは倫理性や誠実さも求めるものであり、ますます重要性を持つ。リーダーの格調が問われ、いわんやリーダー個人の私的欲求追求の臭いなどを感じさせるものであっては、メンバーに「熱い心」を抱かせることは不可能である。
モーターを搭載された客車に相当するメンバーは、モーターを与えられて勝手な方向に、勝手なスピードで走ろうとするかもしれない。逆に、階層を伝ってリーダーから与えられるビジョンを受け身で聞き、言われた通りに行動するかもしれない。ゆえに、ここで重要なのは、ビジョンの達成というひとつの方向性を共有する営みの中で個々が持つ能力を最大限発揮し、参画するということである。だからこそ上記のビジョンの共有と効果的な伝達が重要なのである。小さなグループですらこのビジョンの明確な共有が十分有効に図られていない事例はきわめて多い。また昨今の日本の政治にあっても、将来の目標を達成するための道筋を広くメンバー(国民)が理解し共有するためのプロセスが欠如しているため、国民の「熱い心」を掴むことができていない。それでは共に努力することには到底繋がらないのは当然と言える。
さて、各メンバーに以上の意味をよく理解させ、意欲をもって最大限の参画を求めるにあたっては、リーダーは各個人にもリーダーシップの種を育み、実践するように仕向けることが有効である。役職に伴うリーダーシップ(「フォーマル・リーダーシップ」と呼ぶ)とは別に、仕事のプロセスの作り方や、タテ割の官僚主義の排除などは、役職にとらわれない「インフォーマル・リーダーシップ」によるところが大きいからである。フォーマルなリーダーはインフォーマル・リーダーシップの浸透と発揮を促し、そのための支援やアドバイスを提供することが求められる。それはメンバー個人単位で異なる道であり、それに寄り添うリーダーシップという意味で昨今「サーバント・リーダーシップ」ということがしきりに言われるようになった。米国の士官学校の教科書にすらそのような考慮が加えられている。
ハーバード大学のバーバラ・ケラーマンは『リーダーシップの終焉』(The End of Leadership)という本を書いている。著者にそれを書かせた動機は、金と権力を実現する道としてのリーダーシップという考えが世に溢れ、方法論としてのリーダーシップの研修を業とする企業などが余りにも多くなってしまったことである。本稿でも触れたように、真のリーダーシップは金や権力を実現するだけのためではなく、より高い次元の目標を示してメンバーが困難をおしてでもその達成のために喜んで努力しようとする心理に導き、彼らの力を最大限発揮できるようにするところにある。またそのためには徒に天才や神がかりの人物をリーダーとしてイメージし求めるのではなく、誰しもが教育と訓練によりリーダーシップの最も大切な機能を理解し、自らそれを身につけようとすることが大切なのである。
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