思秋期の詩(うた)
最近、四十代半ばから五十代初めにかけて、それまで運動とは無縁だったのに、突如として走り始めたり、トライアスロンに挑戦する男性が日本で増えてきているという。その背後にある精神風景について考えてみたい。
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おもむろに給仕が料理を運んでくる。大きな鱸(すずき)。七十センチくらいある。頭から尻尾の先まで真っ白な塩で覆われていて、まるで出来たてのミイラのようだ。中身は全く見えない。メスを握る解剖医のような指さばきで、フランス人の給仕が塩のベールを剥がしていく。瞬く間にミイラは魚に姿を変える。
そこから、微妙に給仕の表情が変わっていく。まるで女性を愛撫するような手つきで、骨と身を切り分ける解体作業が進んでいく。しばらくして骨一つない白身となった鱸(すずき)は、眩いばかりに美しい。給仕は、七種類もあるオリーブオイルを一つ一つ説明していく。好みのオイルをぷりぷりした白身にかけてもらう。
解体台上に残されたもう一つの皿は、対照的だ。骨と皮だけになった鱸(すずき)が、片付けられる寸前の緊張感の中で、ある種の存在感をもって横たわっている。真っ白な背骨。ヘミングウェイの『老人と海』の最後のシーンが蘇ってくる。キューバ人の漁師が悪戦苦闘の末に仕留めたカジキマグロが、帰港する途中で鮫の大群に襲撃されて骨と皮にされてしまう。ところが、港でその残骸を目にした観光客は、そこにある種の「美」を見出す。美醜は表裏一体。あの美しさは、一体どこから来るのだろうか?
英米圏で、四、五十代の男たちと飲むと、よく「ミッドライフ・クライシス」(思秋期の危機)の話で盛り上がる。特に英国では「自分を笑い飛ばせることは粋」と考えられており、自嘲的な武勇伝に花が咲く。突然襲ってくる気力、体力の衰え。もの忘れ。老眼。脳味噌や上半身に加え下半身も衰え始める。めっきり酒も弱くなる。
勿論、若さとの別れの予感を感じつつも、うまくソフトランディングできる人はいる。だが、大多数の人は、焦燥感と喪失感に彩られた蟻地獄のような精神風景の中で、力の発信源を求めて、さすらいのノマドになる。人生の後半戦を迎えた今、本当に自分の人生はこれでいいのだろうか?そんな自問自答を続けていると、遠い昔に感じたときめき・夢が突如として蘇ってくる。大型バイク、スポーツカー、サーフィン、退職と起業、社会奉仕活動、若い愛人との失楽園ごっこ、エトセトラ。葛藤と無謀のシーソーゲーム。こうして、「ミッドライフ・クライシス」という名の人生の一幕は開けていく。
不思議なことに、日本の中年男性との酒席でこの言葉を聞いたことがない。ある論者は、文化的要因により日本でミッドライフ・クライシスに陥る人の割合は欧米より著しく少ないという。だが、私はそう思わない。本当のところ、日本人もさほど違わないのではないか。違う点があるとすれば、自分の中で確実に起きている変化を黙殺、封印してしまう力をもつ人の割合であろう。
結局、人間はアニマルだ。オスであれ、メスであれ、人生の要所要所で、上述のカジキマグロに象徴される力・エネルギーの補充を本能的に必要とする。力に対する畏敬、憧憬、渇望。そういう気持ちが体の奥底から湧き上がってくるのを少しでも感じたら、そっと耳を傾けてみよう。人それぞれ異なる、力の発信源に身を委ねてみるのだ。
「青春とは、人生におけるある期間を指すのではなく、精神風景をいう。沸々と湧き上がってくる生命の息吹。臆病な自分に打ち勝ち、選難の精神で突き進んでいく姿勢をいう」(筆者訳)と喝破した詩人ウルマンは、きっとミッドライフ・クライシスの意味を熟知していたのであろう。
さてさて、読者の皆様のミッドライフ・クライシス・マネジメントは如何(いかが)。
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