社会の利益 vs. 個人の幸福: 普通であることの意味
近年、「社会起業家」と呼ばれる人たちが現れた。
NPO(非営利団体)ではなく、社会貢献を目的としながらも、個人の利益も同時に追求する人たちだ。つまり、社会の利益と個人の利益を一致させようという動きである。
これは日本を含めた世界の、特に先進国で急速に増えている。
そもそも洋の東西を問わず、昔から成功した個人の多くは、財産を築いた後に大きな社会貢献をしてきた。しかし近年の社会起業家は、先人たちと決定的に違う点がある。
成功する前から、社会貢献が目的となっていることである。
そこには、「個人の利益追求と、社会貢献は矛盾しない」という思想が根底にある。
しかし日本では、実はまったく反対の発想で社会が成り立っている。集団主義という構造である。個人より集団が優先される社会では、個人が好きなことをやるのは基本的にご法度だ。社会の統率が乱れるから、というのが主な理由だろう。
つまり、こういうことだ。
ひとりひとりが好き勝手なことをすれば、社会が成り立たない。
だから、みんなで我慢しなければならない。
ただしそして、みんなが我慢すれば、それが社会全体の利益になる。
したがって、結果的には個人に利益が還元される。
しかしこの考えかたには、非常に大きな問題が潜んでいる。いつまで個人は我慢すればいいのか、という問題である。そして、基本的に個人を抑圧する社会となるので、個人の自由な発想や行動は、「社会秩序」の名目によって大きく制限されてしまう。それは「滅私奉公」、つまり私利私欲を捨てて、公のために生きるべき、という考えになる。
果たして、滅私奉公によって幸福な社会は達成できるのであろうか。
その問いに「NO」を突きつけ、個人の幸福追求と社会貢献を両立させようとしているのが、前述した社会起業家たちなのである。
しかし集団主義を基とする社会では、「幸せの定義」までもが影響される。
「普通が幸せ」ということだ。
みんなと同じである普通、つまり集団に同化することこそが、個人に幸せをもたらす、というのである。
画一化した社会で、みんなが同じことを求めるならば、コントロールしやすい社会であることは間違いないだろう。もちろん、あくまで為政者からの視点である。
では、個人は本当にそれで幸福になるのだろうか。
現実的なデータを見てみると、日本人の個人が実感する、生活満足度はあまり高くない。
80年代後半、日本の格差が世界で2番目に低かった時代でも、日本人の生活満足度は
高くない。
みんなと同じであることは、ある程度までの満足度を上げるかもしれない。しかし、集団に同化することで失われる、自尊心については、満たされることはない。
だから「普通が幸せ」というは、幸せの定義を集団主義に適応するために、集団主義に属する人々がひねり出した、苦肉の詭弁ともいえる。
だからこそ、個人の幸福の追求に、社会的に意義を見出そうとする人々が台頭しているのだろう。個人を抑圧した社会であれば、その社会がいくら豊かになっても、個人は抑圧されたままで、幸せになれるはずもない。
個人の利益追求と社会貢献との両立はできる。
しかし、個人の利益追求を否定しつづけるかぎり、達成することは難しい。
「人と違うことが素晴らしいのだ」と、心の底から思える人々が増えないかぎり、日本はいつまでも、中途半端な満足感しか達成できない集団で終わってしまうだろう。
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