「肉まん」と小沢昭一
本日(2014,2,23)の日経新聞の“「肉まん」に見る中国政治”と題する5段抜きの解説記事が、面白かった。
中国主席の習近平が一年ほど前に打ち出した倹約振興推進運動のために、肉まん屋で自ら盆を運ぶ姿を庶民の携帯で撮らせたというパフォーマンスのお話。これは、清朝最盛期の乾隆帝が除夜に民情を探るため、お忍びで名もないシューマイ屋で食べたという故事に倣ったものというが、日本では仁徳天皇の故事やこれを真似た東条首相のごみ箱あさりなどを思い出す方もおられるだろう。
ところが、肉まん、シューマイとも北京名物で、習は清朝の最大版図を固めた乾隆帝の故事に倣ったと解説されると、かなりもっともらしい話になり、さすが大新聞の中国総局長の調査報道かと納得がいかないわけでもない。
更に、習の庶民性を讃える「肉まん屋」という歌まで登場した結果文化大革命以来の禁じ手となってきた個人崇拝が解禁されたという分析も面白いが、やや深読みの感も禁じ得ない。だが、この肉まんブームの結果肉まん屋の前には行列ができる一方で高級料理店がつぶれるほど猛威を振うといわれる強権的倹約令は、政府高官の汚職疑惑が深刻化し、反主流派の失脚が続出するといった中での縫合策の一種と見るべきではなかろうか?
ところで、食いしん坊の筆者にとり「肉まん」なるものは、さまざまの思い入れのある食べ物である。先ず、「肉まん」は今日の日本では庶民的な食べ物と言えようが、肉まんやシューマイの類は筆者のような昭和初期の貧しい子供達にとってはかなりのご馳走だった。早い話が、横浜崎陽軒のシューマイも2、30年前までは大変なご馳走の一種であった。
「肉まん」は更に古く昭和10年代の子供にとっては、新宿中村屋のカレー(当時から今日まで「カリードライス」という)と「中華まん」(当時は「支那饅」)が胸躍らせる大ご馳走だった。今の文京区で生まれ育った筆者は、休日の楽しみは上野の松坂屋大食堂のお子様ランチ(天辺につま楊枝を竿にみたてた日の丸の旗が富士山型のケチャップライスに刺してあった)とおまけの箱がついたグリコだったが、小学2年の時に代々木幡ヶ谷に引っ越した後はもっぱら中村屋のカレーと支那饅だった。
中村屋は戦後逸早く再建された筈だが、昭和16年の冬に小沢昭一が「木枯や妻と子の待つ支那饅頭」と「雪やチラ銭湯帰り支那饅頭」という句を作っている(この頃は未だ「支那」は禁句というマスコミの似非差別狩が支配的ではなかったか、毅然たる文人の小沢氏はこれを敢えて無視していたのかは詳らかではない。小沢昭一『俳句で綴る変哲半世紀』は、彼が亡くなる直前2012年末に出版された4000句を収録した奇書、筆者がどうかして投獄された場合にはこの本を差し入れて貰えば半年はこれを読んで頑張れそうな名著)。
「肉まん」の話から、小沢昭一を介して突然世代論に飛躍するが、彼と大島渚という筆者と同世代の鬼才が相次いで亡くなった。前者は一才年長、後者は一才年下だが、「のんしゃらり」の軽妙と猪突猛進の強面と生きざまの対極的相違を超えて、筆者が最も注目してきた同世代の巨匠達である。
小沢には、以上に引いた肉まんを謳ったような軽妙な句もあるが、「いのち万才秋夕焼けの杉木立」とか「都電待つ俺ひとりの空鳥渡る」などといった透徹した人生観を謳った句もある。こういう巨人が次々と世を去っていく中、筆者のような残された超後期高齢者も老いこまずに頑張りたい。
「不帰方(こずかた)のお城の草に寝ころびて/空に吸われし/十五の心」という石川啄木の歌を引いて、逆境におかれても諦めることなくソチの空の下で最後まで健闘した「あの子」に、「利いたふうな口をききやが」ったりする70代の政治家を戒めた「春秋」氏(日経新聞2014,2,13)に倣って、これからの日本を未だ未だこんな連中に任せるわけにはいかないと思うからだ。
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